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1980年(昭和55年)に掲げた「軽チャー路線」がようやく波に乗り出し、1984年(昭和59年)には年間売上高も開局以来初めてキー局でトップに躍り出た。
局舎のお台場移転構想が持ち上がったのはこのころである。
当時のフジサンケイグループ議長鹿内春雄が、所用で当時はまだ更地だったお台場を訪れ「テレビ局を運営するなら建築物の林立した都心よりも、その都心を広々と見渡すことのできるお台場のような場所がいい」と考え、後のフジテレビ役員会議で提唱した。
当時の東京都知事鈴木俊一 (東京都知事)も必要」という方針を打ち出していた。
そのようなこともあり、かねてから親交が深かった鹿内春雄にフジテレビの誘致を積極的に行っていたことが、この移転構想へつながったと見られている。
お台場は当時未開発の地であり、都心と比較しても地価が安く、用地も都から安価で提供してもらえたことも大きく影響した。
当時はレインボーブリッジやゆりかもめ東京臨海新交通臨海線さえ開通していなかったことや、都心からも遠いこともあり、ほとんどの役員はお台場移転案に消極的であった。
前述のように将来における民放の衛星放送への参画や、それに伴うスタジオの増設、局内のデジタル回線への変更などで当時の河田町の局舎では限界があったため、新局舎の建設が必要であることは役員の誰もが理解していた。
このため、再三にわたる議論の末、
河田町の局舎解体後、跡地に新局舎を建て直す案(移転不要案)
都心に近くて広大な土地のある品川区大崎 (品川区)東口地区)への移転案
お台場移転案
の3つに絞られた。
フジテレビの現場サイドも局舎そのものを観光名所にして、そこから新たな収益構造を作りたいという目的があったため、住宅地のど真ん中にある河田町では地理的に集客力に限界があり、この目的は達成できないとして1.の移転不要案は却下された。
また、2.と3.を比べても、お台場は海沿いで眺めも良く、開発されつくした大崎エリアと比べても未開発で集客面でも将来性が大きかったことと、前述の地価の面でも大きく有利に動いた。
これに加えて鈴木都知事の協力が得られたことにより、3.のお台場移転案が決定的になった。
これを受け、局内に当時取締役編成局長だった日枝久を初代室長とする総合開発室が設置された。
将来の台場新局舎の建設計画や用地取得、および衛星放送開始に備え、10年越しでの大プロジェクトを敢行し、現在の「お台場のフジテレビ」を築き上げた。
また、これらのプロジェクトで費やした費用は10年間で実に数千億円に上ったという。
なお、1997年5月放送の「めちゃイケ」(河田町からお台場への引越企画を放送)では、「台場移転に2tトラック約4千台分・費用約7億円」と放送されていた。
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