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溥儀の住んでいた日本租界のある天津は、この頃の国共内戦の主な戦闘地域から離れていたことや、日本やイギリス、フランスなどの列強をはじめとする外国租界が多かったため、両軍が租界を持つ諸外国に刺激を与えることを恐れたこと、さらに張作霖爆殺事件以降、急速に関東軍の支配が強まっていたこともあり、国共内戦の影響を受けることはなかった。
引き続き日本政府は溥儀の扱いに苦慮していたものの、この様な状況下で溥儀を自国の租界から追い出すわけにもいかないため、溥儀はその後も天津の日本租界の張園、後に移転した協昌里の静園に留まり、婉容と文繍、そして鄭孝胥をはじめとする紫禁城時代からの少数の側近らとともに静かに暮らしていた。
しかし、正妻の婉容との確執が深まった側室の文繍と別居後1931年に離婚し、中国の歴史上初の離婚歴を持つ皇帝となる。
離婚後文繍は溥儀に対して慰謝料を求めて告訴した上で、溥儀の性癖や家庭内および宮廷内の内情をマスコミに暴露する。
この事を受けて文繍は離婚後すべての位を剥奪され平民となり、小学校の教師として1950年に死亡する。
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